はなし半分今日この頃

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大事に育てた花が理想以上に咲いた時、人は感動するという話(エーステ秋冬感想)

MANKAI STAGE「A3!」秋冬公演が大千秋楽を迎えました。

本当に本当に見るたびに大好きで最近はめっきりまじめに舞台に通っていなかった私は久しぶりに死ぬ気で通おうと決意する舞台だった。

皆が口をそろえて皆がほめたたえる舞台について今更「面白かった」の感想を聞きたい人間なんてごく少数だと思いますが、自己満足と後はエンターテイメントはかくあるべしを感じたという備忘録でもあります。



そもそも私は春夏公演の時点でA3舞台へのモチベーションがとてもとても低かった。というかそもそもチケットを持っていなかった。理由はいろいろあるけどその辺は割愛させていただく。

ぼんやりと評判を眺めていた時に演出が以前別の舞台ですごく良い演出をするなと思った人だと気が付き、チケットとればよかったなあとつぶやき、それを見た同じくらいのモチベーションの友人が拾ってくれ、無事観劇することが出来た。


実際に見た舞台は期待値を低く見積もっていたことを後悔するくらいとっても良くてその時すでに別の予定が入っいたため噂の「実際の千秋楽で劇中劇の千秋楽をする」という演出をライビュすら立ち会えなかったことは今でも後悔している。

友人とこれは秋冬公演気合い入れてチケットを取ろうと誓い、その誓い通り秋冬公演は無事複数回会場に足を運ぶことが出来た。

私はゲーム上では秋組を贔屓にしているヲタクなので今回の秋冬公演は並々ならぬ緊張をもって挑んだ。

過去にめちゃくちゃ大好きな作品の舞台化2作目が原作隅から読み返せと言いたくなるような出来で、1作目が面白かったからと言ってそのクオリティが続くわけではない、というのを痛いほど学んだからだ。


幸運なこと、そしてありがたいことに心配は杞憂に終わり、本当に本当にいつ見てもどこを見ても楽しくて素敵な舞台だった。


私は割と複数回通うと感情がこなれてくるタイプで、毎公演泣くということは今までほとんどなかったのだが秋冬公演に関してはほぼ毎公演別のシーンで涙を流していた気がする。長らく観劇ヲタクをしている自覚はあるけど中々ない体験だった。

皆が息をのんだ太一の罪を告白するポートレートはいつみても空気のヒリつき方が違い、あそこの所見誰もがウッとなるシーンを絶対に慣れさせないぞという気合を感じた。愛されたかったと願う太一の気持ちを絶対に風化させてやらない

私は今回の公演でこの太一のポートレートからも万里が発破をかけるシーン(「お前はどこの誰だいってみ?」のくだり)が大好きであのセンセーショナルな太一のポートレートに埋もれることなくそして毎公演アプローチを変えながら秋組リーダーとしての摂津万里の役割と成長を演じてもらえたのが本当にうれしかった。あそこはやっぱり直前の太一が凄すぎるので最初見たときは少し心配したのだけれど公演を重ねるごとにバランスに配慮されてて日を追うごとに違う思いで見ることが出来た。

後、万里で言うと劇中劇のベンジャミンが「よほどルチアーノさんのことを信じてるんだね」のくだりで「あいつにいうんじゃねえぞ、俺もだ」と返すところが最後の最後、大千秋楽で全然言い方が変わっていたのにはびっくりしすぎてちょっと引いた。今までは劇中劇の役として返していたセリフだと思っていたけど大千秋楽では摂津万里個人の感情の動きが乗っかているセリフに思えた。


凱旋公演まで見て一番すごいと思ったのは冬組。

冬は元々経験と力量がある人がそろっているとは思っていたけど東京公演では何も感じなかった場面に胸を打たれたことにびっくりした。

私は「死」に関わる悲劇があまり好みではなくそりゃ死んだら悲しいだろと思ってしまうので、ぶっちゃけミカエルの最後はきれいな光景だなあくらいの心の動きだったんだけど、凱旋公演の紬は最後ちょっと大げさなくらいの満面の笑みでそれが凄く印象に残った。


私は演技の上で役者とキャラクターの境界線があいまいになる瞬間がとてもとても好きなんだけれど、A3は劇中劇という装置のせいか、役者とキャラクターとキャラクターが演じる役の3つで構成されてる。それが役者の気持ちの変化とは、舞台の空気とかにうまく合致したからあんなにも毎日その日の空気にハマる舞台だったのかなあと思う。




よく言われる舞台は生もの、という言葉がある。

毎日同じ舞台でもその日の役者のコンディション、受け取りての感じ方で全然違うよね、だから私たちヲタクは多ステするんですよという一種の免罪符だと私は思っている。私も基本的にそのスタンスだし、毎日違うものを見に行っている気持ちではいるし、面白いものは何回見ても面白いとは思ってはいる。いつだって推してる人の演技は見ていて楽しい。

でもどんなに推しがいい演技をしていても、どんなに役者が頑張っても絶望的に適当な脚本や演出がこの世に存在していることを知っている。例え一部のよかったシーンがあれども感情の慣れによって惰性になってしまうことだってあるし、推しの演技は毎日最高だけどその他は褒めるところねーな!みたいな舞台はごろごろある。


面白いものを、面白いままに、毎日違ういいものを、が悲しいことに理想論なのを私は知っている。


そもそもエンターテイメントとは大前提として面白いものに金を出すという行いが健全な行いなはずなのに、悲しいかな現場に一生懸命通うヲタクは所謂虚無の舞台でミリとも面白くない舞台で推しを眺め、作品の感想はうまくかわしつつ「今日も推しくんの演技は最高!」と呟くしかないのだ。悲しい。とても不健全だ。

でもそういう、チケットがだだ余って招待枠が出るような舞台に金を出さずに″推してます″と名乗ることは悲しいことに心が死んでしまうのだ。(とても重要なことだがこれは私個人の感情であり他の方に強要するものではないこともちゃんと理解しているので安心して欲しい)

あと推しが頑張っている舞台で空席が目立つのは普通に悲しい。


頑張って興味のない舞台のいいところを探して、推しを眺め、どうか次の仕事や大きな役につながるように願っていざ大役をつかんだ時には今まで現場に足を運ばなかった人たちが押し寄せチケットが戦争となるのだ…悲しい…。

そういう不健全な行いのサイクルはいつかお客の気持ちを折ることになる。私たちはATMではないし、どんなに稼ぐ人だって資金が一生底を尽きないなんて人はほぼほぼいないのだ。


少し話がずれた気がする。


私がエーステで何より評価したいことは面白い原作が面白いままパッケージングされたこと、そしてそれを役者がちゃんと面白いまま以上に演じてくれたこと、スタッフも役者も作品の人気に甘えなかったことに尽きる。

世の中に面白いものはたくさんあれどそれが面白いままパッケージングされるとは限らないし、原作の良ではさが舞台の出来にそのまま直結するとも限らない。

出来れば世の中のエンターテイメントのすべてが気持ちよくお金が出せるものになればいいなあと思う。


「なにがあっても何がなくても 時計の針はThe Show Must Go On!」

ショマスの好きなところいっぱいあるけど私は特にこの歌詞が一番好き。

一観客である私がいなくても、舞台の幕は今日も上がるし私がこんな風に文章を書いても書かなくても何一つ変わらず時間は進む。楽しい舞台も、残念な舞台も等しく幕はあがる。それは私たちの日常と一緒だ。この歌詞を聞いた時に私たちの日常と舞台との隔たりは案外そんなにないのかもなあなんて考えた。だって舞台はその舞台に立つキャラクターたちの日常なんだから。

人生は何にもない日の方が圧倒的に多い。日々をこなすことに手いっぱいで毎日惰性で生きることだってあるけど、でも出来ることならば惰性の中でも楽しさを見いだせる人間でありたい。

私はいつだって舞台に対して理想を追い求めるし、いつだって日常以上のものが欲しいのだ。



願わくば今日から始まる春単独公演がどうか美しい、そして幕が閉じることを惜しいと思えるような時間であることを祈るばかりだ。